オムレツを作れるようになった話

あるいは鳥が飛びたつ話だとか、TV版EVA最終回だとかいえる。ぶっちゃけ僕以外にとってはどうでもいいことだし、そもそも数名を除いて何を言っているか全くわからないと思う。そして僕自身、自分の語彙じゃ伝えきれないし、無理に言葉にしても取るに足らないだろうと確信している。それでも書く。あえて書く。
例えばそれは、今日たまたま入った古着屋の店員さんがオススメの服を選んでくれたことだったり。たまたま話した揚げアイスの売り子さんが色々とアドバイスしてくれたことだったり。たまたま似顔絵を描いてくれた漫研部員がオススメのマンガを教えてくれたことだったり。「ぼく」という人間が、そういった色々な人の、何気ない善意を受けてもいいんだ、ということを初めて自覚できた。今までのぼくは、他人の善意に対して「こいつらは本当に善意だけなんだろうか。ぼくなんぞに善意見せるなんて、なんか裏があるんじゃ」と疑っていた。自分に自信が持てなかったから、他人が自分に見せる善意も信じられなかったんだろう。
(もちろん「他人の善意を受けるに足る人間になろう」とは常に思っていた。今となっては言い訳がましいけど)
だけど、今日とある失敗をしたことで(より正確にいうと、失敗すらできなかったことで)一変した。これまでの挫折だったら「あの時は酒が入っていたからだ」とアルコールを言い訳にしたり、「そもそも失敗するような状況じゃなかった」と無かったことにできた。今回はそれができなかった。正真正銘、正気の自分が失敗したことを認めるしかなかった。
で、認めた。で、気づいた。自分はこれまで「ぼくなんぞが、そういう失敗をできる価値すらない」って思っていたことに。「ぼくなんぞ、人並みに失敗しちゃいけない。もっとそれ以前の段階だ」って。自分を卑下することで、「自分が失敗した」って事実を覆い隠そうとしてたんだろう。「失敗した自分」を許すことができなかったから。
けれど、認めてみたら違った。思っていた以上にあっさりと「失敗した自分」を受け入れた。それどころか、失敗した自分を許すことができた。正直、涙が出た。自分を受け入れられたこと。それ以上に「ぼくは、世間一般並みの人みたいに、世間一般並みのことをやっていいんだ。」と思えたことに。こんな「ぼく」でも、人様と同じような生活を送ってもいいんだ、と思えたことに。

今なら確信を持てる。古着屋の店員さんは「ぼくのために」服を選んでくれた。揚げアイスの売り子さんは「ぼくのために」アドバイスをしてくれた。漫研部員さんは「ぼくのために」オススメのマンガを教えてくれた。っつーか、ぶっちゃけ事実はどうでもいい。大事なのは「ぼくのためにやってくれた」ということをぼくが受け入れられたこと。ぼくは他人の「純粋な善意」を受けるに足る人物だと、ぼくが信じられること。だからどうなる、っつーわけでもない。やっぱり失敗は今後も重ねるんだろうし。