昨日の追記

そもそも努力しないことは道徳的な悪ではない。努力をした者に多くの報酬が配分される可能性が高くなる社会システムになっているのは、単にその方が社会全体が豊かになる、というインセンティブ設計の都合に過ぎない。

努力しない人を国家が救済すべき14の理由 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

「努力しなくちゃいけない」ってのも、社会みたいな外部に与えられた価値観に過ぎないわけで。
もちろん、努力と得るものが大きさに相関関係が無いとは言わない。
けれど、努力に何を見出すかはそれこそ本人の「努力」次第なわけで。
決して努力自体に価値があるわけじゃない。

「努力する人間」が「努力しない人間」を認めるということは、
「努力しない事」の価値が「努力する事」と(少なくとも)等しいと認めることです。
即ち「これまで努力してきた自分」と「たいした努力をしてこなかった他人」を「努力」と言うラインで差別化できなくなります。
言ってしまえば、自分のアイデンティティを揺るがしかねないコペルニクス的転回です。

そりゃ、難しいってモンです、多分。