卒論ほっぽり出して

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

これ関連のブログをいくつか回ってみました。
正直、結構いろいろな場所で評判になっててビックリです。
どうやらid:umedamochio:20081107でのレビューを発端に、色々な所に広まったみたいです。

今回は僕も感想書いてみます。
見も蓋も無い話「人間は自分の言語以上の事柄を思考できない事を、感覚として理解できる人」じゃないと理解できないんじゃないかと思います。

僕は「日本語が亡んでいく事の危機感」は賛同できません。
楽観主義者なんで、形は変わっても日本人は日本語を使ってだろうと思っています。
(その変容の是非は別として)
それでも英語圏で自分の思考が形成された人間として、筆者がそういう危機感を持ったことは共感できます。

人間は自分の言語でしか考えることはできず、それぞれの言語にはそれぞれの特徴があります。
例えば僕の場合、くどくなると分かっていながら「そこが」「彼は」みたいな主語や、「なので」「しかし」みたいな接続詞を置かずにいられません。
これって、英語の文法なんです。
英語は、主語や文同士の繋がりがはっきりしていなくちゃいけない。
僕が幼い頃「英語で文章を書いていた」ことが、違う言語で書いていても、僕の文章に影響を与え続けている。文章ってのは自分の思考を表出する行為です。即ち、僕の思考は英語という言葉に縛られてるんですよね。
そういう実感があるから、僕は筆者が危機感を持った理由がなんとなく分かる(ような気がする)。
筆者が近代文学の重要性を推すのも、近代文学(=現代日本語形成のプロセス)を知ることで、日本語という言語の持つ思考体系を習得させるため、ってのがあるんでしょう。

今、再確認しておきたいのは、以下の二点である。 一つ。今何もしなければ、来世紀には日本語は本当に滅びうる、ということ。 二つ。日本語を遺すということは、現代の日本人に対するにとどまらない、将来の世界に対する我々の責任であるということ。 この点において、私は著者と危機感をともにする。 ただし、「どうやったら来世紀も日本語を遺せるのか」という点に関しては、著者と意見を異とする。Jcodeを経てEncodeを出した経験が、それを裏打ちしている。

この本を絶賛している人たちにプログラマーがいるのも、「プログラマーほど、自分が使う言語の限界に直面する職業は無い」からじゃないかなと、思ってみたり。
だってプログラミングは、その言語に存在するコマンド以上の命令は出せないわけですから。

あとバイリンガル教育ですが、僕も無意味に全員に施すよりも、一部のエリート徹底的に教え込むべきだと思います。
彼らがしっかり海外の文化を理解できれば、それを日本に還元することはできます。
そうやって還元された知識を見て、他の人は自分の理解を深めていけるわけで。

ある意味、この本は日本に住む日本人向けじゃないと言えるでしょう。
だって日本にいて、日本人中心に付き合っている限り、日本語の限界を感じる機会は殆ど訪れないですし。

自分もこれから、グローバル化(英語化)していく社会に出て行くわけです。
そういう社会に立ち向かうためには、いかに「日本人」としてのアイデンティティを構築するかが重要です。
どんなに外国語を勉強しても、自分が生まれ育った「日本語」とは離れる事ができないわけですから。
即ち「自分が日本人だ」という根っこを構築していく作業が必要なんだなぁと思ったり。